金正日前妻成恵琳の姉成恵琅が明らかにする
「現在の女性は、在日同胞の娘で、万寿台芸術団舞踊手である高英姫」
去る11月中旬、記者は、ヨーロッパのある都市の閑寂な住宅街に位置する小さな事務室にいた。96年初め、北朝鮮を脱出して、5年間姿を見せていない、北朝鮮金正日委員長の前妻成恵琳の姉で、国内で殺害された李韓永氏の母である成恵琅氏(65歳)と会うためだった。一時、「金正日の本妻西側脱出」という題目の記事で全世界の注目を受けた成恵琅氏。数回、書信を受け取ったことはあったが、直接会ったのは初めてだった。本当に現れるのか、韓国から来た記者をどのように考えるのか、最初の挨拶はどうすればしようか・・・。いろんな考えが頭の中を乱れているとき、約束場所に向かって近付く背の低い東洋人の夫人と若い女性が目に入ってきた。成恵琅氏と彼女の娘李ナモク氏(33歳)だった。眼鏡をかけ、髪の毛が白く染まったまま、異国の地に留まっているこの初老の女性は、「先生、お元気ですか?」という挨拶を交わす記者の手を両手で掴み、涙を流し始めた。「・・・私が韓国の人と初めて会います」と。
■韓国言論に対する深い不信、脱出以後南北全て連絡なし
成恵琅氏は、正式インタビューも、写真撮影も拒否した。初めに約束した通り、「自叙伝出版論議」だけに固執した。自身の居所に言論を迎え、インタビューを行うことが穏当ではないと考えてるのだろう。
更に、「14年目に死んだことが知らされていた息子と会い、泣き崩れた母性までも商業的に利用する韓国言論」に対する悪感情も潜んでいなかった。記者は、自叙伝出版と関連した話で「対話」を始めた。最近の南北和解の雰囲気が本を出すので(12月初め、「藤の家」という題名で国内出版予定)、負担ではないと。「原稿でも明らかにしていますが、私は、誰よりも南北が統一されることを願います。南北が統一されてこそ、夢にも見る故郷ソウルにも行け、私の青春を過ごした大同江の岸も再び訪ね、私の息子の墓所にも行けるでしょう?私の本が現在の統一ムードに水を注すことはないと確信しました。万に一つ、反統一勢力がこの本を悪意をもって、利用しないことを願います」。今も身辺に危険を感じないのかと訊ねるや、「危険を感じないけど、身分を隠さなければならないと考えます」語った。全ての意味においてなのか、問いただした。「南と北のどちらも、無理をして、私を捕まえようとすれば、捕まえられるのです。しかし、彼らが私を必ず捕まえなければならない必要性はないと考えます。私もやはり、彼らにそのような必要性が生まれるだけの行動をしようとはしません。しかし、一方で、彼らが私を捕まえようとしても、捕まえられないように、100%万般の備えをしなければならないのです」。
成氏は、李韓永氏殺害前、韓国当局の接触提議と指導を自叙伝において仔細に明らかにしている。息子が死んだ後には、連絡がなくなったのかと訊ねた。「現地当局が何せ強く私を保護するという立場を表明したため、その国家を飛び越えて、私に直接いかなる行動もするのは難しいと見ます。ただ、兄(ソウルに居住している成イルギ氏)が強く会おうとしていますが、私がこれを拒否しています。勿論、連絡は、私が一方的にするだけです。つい最近の通話は、6ヶ月前頃でした」。脱出以後、北朝鮮からも、何の連絡もなかったという。ただ、数回、そちらの消息を知ろうとしたが、不如意だった。成氏は、北朝鮮当局が彼女を探さない理由に対して、このように語る。「捨て置かれたのではないかしら。私達が脱出した以後、北に対して、何か悪く言ったことがありますか?李ナモクがCNNとインタビューしたときも、客観的に陳述しませんでしたか?勿論、当時には、南側から親北的発言だと言われましたが、今は、そのように考えないでしょう」。
■北朝鮮が太陽政策に信頼持った様、金委員長は開放的な人
成恵琅氏は、ひきりなしに韓国大統領選挙をいつやるのかと訊ねた。2002年12月だと言い、理由を訊ねると、「今のような統一の雰囲気がいつまでも続いて欲しい・・・」とし、語尾を濁した。大統領が代われば、雰囲気もまた変わることもあると考えているようだった。既に、南北関係は、一定の流れが形成されたのではないのではと反問すると、「流れとは何・・・いつぞやはそうじゃなかったの?」とし、口をつぐんだ。韓国政府に対する不信が敷かれているようなこの話を聞き、単刀直入に訊ねてみた。「北朝鮮が経済的危機を脱するために、南北対話に戦術的に応じているのではないか?」と。「そのような質問に答えたくはありません。ただ、金正日委員長の本性自体が開放的な人なのです。純然と私だけの考えを言うとすれば、北朝鮮が韓国側の太陽政策の真心を長い間見守っていました。今、対話に応じるのは、その太陽政策に対する一定の信頼が生まれているのです。明らかなのは、金委員長は、韓国の政治人のように造作をしたり、偽善的な行動を行う術を知らない人なのです」。横にいた娘李ナモク氏が一言話した。「インターネットを見ると、南側のある日刊紙記者が李韓永が語ったとして、ソン・ドゥユル教授が間諜だと言ってましたよ」と。記者の代わりに、成氏がその言葉を受けた。「私達の息子(李韓永)が金委員長に直接聞いたと言いますが・・・。その前には、外国で暮らし、82年に(北朝鮮を)出て行った者がどうしてそのような事実を知るの?私も知りません。そして、金委員長がその子供を置いて、誰が間諜だと言うのでしょうか?その記者が今は死んだ私の息子まで、売ってしまって。私は腹が立って、本に書こうとはしませんでした」。
■不遇な子供時代を送った金委員長、この上ない子供への愛と人間的な面貌
南北頂上会談以後、金正日委員長は、世界的な「スター」となった。初めて登場した公式席上において、ユーモア感覚と豪放さ、破格に耳目を集中させたこと。甚だしくは、彼の身なり、眼鏡まで話題に上った位である。成恵琅氏は、自身が北朝鮮を離れるときまでも、金委員長は、「人民服」と呼ばれるその「簡便服」だけ1年中着たという。服は、官舎の洋装部で作るが、80年代からは、中央党洋服部であつらえ、生地は、金委員長が直接持ってきて、成恵琳に渡すか、成恵琳の姉妹が外国に出て買ってきた布で作ったという。家に入ってきては、寝巻きや、下着姿で生活したという。
一部言論では、金委員長が夜遅くまで映画を見るか、酒を飲んで充血した目を隠すため、眼鏡をかけ始めたと報道することもあったが、そうではないという。「70年代には、サングラスをかけていましたよ。その後、目が悪くなり、度数も少し入れました。その前には、ただ洒落でかけました。私達がジュネーブに行ったとき、流行していた眼鏡を買ってあげたけど、選ばずにかけているのです。今かけているのは、80年代からかけました。多分、日本の朝総連から送られた眼鏡ですよ。ところで、金委員長は、自分の顔を隠そうと、眼鏡をかけるような性格ではありません。周辺から勧めれば、そのまま手にとって、かけていくのです」。
金委員長は、いつからかパーマをかけたという。縮れ髪ではなく、馬の尻尾のような髪で、北朝鮮では、髪に油を塗らないために、髪がたれて目にかからないように、パーマをし始めたという。成氏は、自分の自叙伝に金委員長がパーマ薬を新たに買ってきて、息子の一男(李韓永の本名)に、パーマを1度してみろと、提議する光景を紹介してもいる。金委員長は、自分よりも5歳年上の女性である成恵琳を家に呼ぶときは、「おまえ(ヨボ)」と話し、他人には、「アエミ」と呼称したという。玩具を買っては、直接組み立て、運転してみた後、息子の正男に与える位、細かい面があった。金委員長は、子供時代を
戦争で過ごし、その後、父は、戦争復旧事業に余念なく、結局、継母の下で顧みられることがなく育った位、不遇な子供時代を送ったという。それで、子息に対する愛情が人並み外れ、自分が子供時代員できなかったことを埋め合わせてやろうとする欲求がひどく強いのだという。金正日委員長と正男父子は、外貌は勿論、性格まで似ているという。親思いが至極で、父を恐れて尊敬するのは、その家内の内力であるようで、金日成主席の家内は、骨組みのある家内という話も付け加える。
過激であっても、鋭敏で、芸術方面に優れていることも、金委員長父子の似た点である。特に字が上手い金正男は、幼いときから直接シナリオを書き、父が建ててやった小型撮影所で映写機を回して、映画を作ったという。金正日委員長も、モスクワに出て来ていた成恵琳と息子の正男に書いた手紙を見れば、字が上手く、「彼の字は、無駄なく、真っ直ぐ核心を衝くのに優れています」と伝える。金委員長は、少し前、米国のオルブライト国務長官が訪朝したとき、「英語教師を派遣してくれますか」と語ったことがある。金委員長は、外国語の実力がどの程度なのか、と訊ねるや、「ただ、ロシア語程度で、その実力は、平壌で大学を出た人が話す位に知っている程度」という。しかし、息子の金正男は、英語、フランス語、ロシア語等3ヶ国語を駆使します。成恵琅氏の自叙伝原稿には、金正日委員長が社会主義でずっと暮らしてきた人間より資本主義の物を食べても、社会主義を選択した者をより信頼するという内容が出てくる。
それが事実なのか、理由が何なのか訊ねた。「私の感じでは事実です。彼は、資本主義の物質万能の病弊を克服した者を信頼します。そして、彼は、基本的に高級で、芸術的で、文化的で、文明的なものを好みます。要するに、田舎じみたものを憎悪します。人であれ、物件であれ、美的感覚が優れた人と物件に関心をより持ちます。それで、先に話しましたが、私は、彼が本能的に開放に向かう外ないと考えます。
金正男が金正日委員長の後継者になれるのか、という質問に彼女は、声を高めた。「可笑しな話です。後継者という言葉を今話す段階でもなく、私がたとえ彼の義母だとしても、彼が後継者になることを願ってもいません。彼の母(成恵琳)も、同様です。個人的に、世襲は、社会主義の本質と食い違っていると考えます。金委員長が権力を掴んだのは、彼が息子だからではなく、最も能力が優れ、金主席の課業を最も良く継承できるためだと、北では言われています」。成恵琳は、複雑な性格の所有者と知られている。母としての成恵琳をどのように見ているのか訊ねてみた。「恵琳は、末っ子として、父母の愛を独り占めしました。駄々も多くこねました。しかし、金委員長にそうはしませんでした。年上で、むしろ姉のような友人のように過ごしました。そして、性格が内性的で、自身の問題は勿論、周辺の問題まで抱えて、ストレスを受けても、内に秘めるスタイルです。それで、病気になったのかも知れません。そのような点が指導者の妻として、内で起こったことを決して外に素振りを見せない美徳を備えさせたのです。それで、幼いときからユーモアと物真似をするのが上手かった。要するに、芸術的感覚が卓越してました。このような点が金委員長と相性が良かったのです。本にもいろんな事例が出ていますが、2人は、多くを語らなくても、感情と感じを交感し、周囲を狼狽させたこともあります。事実、金委員長は、言葉の多いのを嫌います。核心だけ短く話せば、残りは自分で理解して判断するのを好みます。要するに、無駄を嫌います」。いろんな意味を込めて、「金正日委員長は、自分が語った言葉に対して、約束を守るのか?」と訊ねた。「それは、明らかです。過去のように、一語も全て記憶して、必ず守らせ、確認までします。甚だしくは、相手側が忘れている言葉も、記憶している位です」。
■金英淑が公式席上に出ない理由、成恵琳は既に離れた存在
金正日委員長の夫人は、金英淑と知られている。南北頂上会談時、金大中大統領と同行した李フィホ女史のため、金英淑が公式席上に姿を現すのかが関心事だった。しかし、金英淑は、遂に現れなかった。金英淑だけが金委員長の法的妻なのか訊ねた。「北朝鮮において、金正日秘書の法的妻とは、存在しません。金正日秘書の家系、中央党所属の者は、公民証がありません。従って、法的妻ではありませんが、ただ、金英淑だけが金日成主席の前で人事を行ったのです。それで、韓国式に法的妻とする言葉を語れるのか・・・」。成恵琳との間を秘密にしていたので、金日成主席は、死亡するときまで初孫の金正男と会わなかったという。ただ、金委員長の妹金慶姫が父に話して、存在は知っていたという。最近、金委員長の愛を受けているものと知られる高英姫という女性に対して訊ねた。「高英姫は、在日同胞の娘だと聞きました。そして、万寿台芸術団舞踊手だと。金英淑との間に娘が2人だけで、恵琳とは、正男が生まれ、高英姫とは、1男1女ではないでしょうか?その子供が正男より12〜13歳下で。今、ジュネーブで勉強しているその子供が。事実、高英姫に対しては、何せ厳格な取締を行い、他人ほど知りません」。
在日同胞は、差別対象ではないのかという質問に、「不信対象と分類されました。それで、金委員長がどれだけ破格的なのかを知ることができます」と語った。成恵琅氏は、自叙伝において、北朝鮮の「ホスト・レディ」が、何故出てこないのかに対して、このように書いている。「・・・西側と韓国が大きな疑問を抱き、首班の空白(金正日委員長が一時公開席上に姿を現さないこと)に対して、専門家が論理を展開したが、私は、その度にその論理の底に敷かれたより実質的で、時勢的な見解に哄笑していることを告白します。「その人を連れ出す女性がおらず、混乱して、首班になれないかも知れない」と。これが暴言とすれば、笑いを堪えたいです。時勢は、別人が展開しましたが、ひねくれてるのでしょうか。父金日成が定めてやった女性は、どの招待所でも見ることができる管理員程度だとしても、過言ではないでしょう。私は、その女性の人格や、人間のレベルを語るのではなく(知りもしない)、正日秘書のその女性に対する評価(それが正しく、間違っていないことに対する評価に従い)、関係を話します。その女性がいようがいまいが、1人の存在で、女性にいかに辛い処置なのかというのは、彼女の存在を知る者は、全員知っています」。
「「彼が公式席上に出てきたことがなく、金日成も金聖愛を長い間隠れていたことに照らして、遅れて登壇する可能性」に対して云々する韓国の文字を見て、本当に知らないようです。金英淑は、今まで金秘書の視野の外にいる女性でした。今、暮らしている彼女は、現在も、今後も、金正日秘書と家庭を構えないかもしれず、「在胞」(在日同胞)という事実を全国民が知っているのは、指導者に白頭山聖地で生まれた革命家系の真実性を否定する拒否感を与えています。彼女を表に立てることはないでしょう。成恵琳は、長男の母であるだけで、今は離れた存在です。いつだったが、私は、母(金ウォンジュ)と閑談しました。「今後、正男のパパ(金正日委員長)が首班になれば、誰を連れて行くのでしょうか?」、「誰を連れて行くとしても、どの女性も出てこないでしょう。高家(高英姫)を出すか、西長洞の女性(金英淑)を出すでしょう」。金正日秘書は、内心そのどの女性とも正式結婚しませんでした。外部で金英淑を正室だとするのは、彼の父の前に合法化された女性だという意味の外にはありません。家系は、公民証もありません。そのいかなる法的手続きも、文書もないのです。誰を妻と認定するのかは、法の上に君臨する最高首班自身の認定の外にはありません」。
■平壌玉流館で会ったイム・スギョン、パク・キョンリ、ハン・ムスク、コン・ジヨンが好き
作家出身である成恵琅氏は、北朝鮮で韓国作家の作品をたくさん読んだという。彼女が好きな女流作家は、全て親しみのある名前である。「母(金ウォンジュ)も、朴キョンリ氏の作品を最も高く買い、特に「土地」を読んでは、大きく感動しました。私もやはり、オアク・キョンリ氏の小説が好きで、最近、作品を選んでは、全て読みました。私が最も好きな作家は、ハン・ムスク氏です。最近の小説家では、朴ワンソ氏とコン・ジヨン氏が好きです。コン・ジヨン氏の「鯖」は、時代を反映し、作家の主張があって、好きです」。平壌祝典時、訪北していたイム・スギョン氏と直接会った話も聞かされた。平壌玉流館に来たとき、統制していた「民青員」を払いのけ、イム・スギョンに飛びついて、手票(サイン)をしてもらおうとしたという。「私が手票をもらおうとしたとき、出し抜けにソウル言葉の良い服、白い顔に怪訝になり、「おばさん、誰なの?」と訊ねました。私は、ただのおばさんよ、と語って、抱きしめ、限りなく泣きました。故郷であるソウルから来た女性という考えが私に更に拍車をかけたようです」。金大中大統領に対して、どのように考えているのかという質問には、「長い間野党指導者で、情報政治の犠牲者だったが、意思が強い人だと考えます」と答えた。
■文学少女のような脆い感性、息子の側で暮らして死にたい心だけ
成氏は、その間、自叙伝執筆と本を読むことでその日を過ごしたという。片手間に外国語を習い、直接ご飯を食べて・・。現地当局から永住権は出たのか訊ねるや、彼女は、手を遮った。「身辺に関する質問は、これ以上しないで下さい。これは、身辺に対する危険よりも南北両側の間に私に関して知られている情報以上は、公開しないのが良いとの判断のためです」。
結婚した娘のナモク氏と一緒に生活していないが、いつでも会える近い距離に暮らしているという。北朝鮮を脱出して、結婚した娘の李ナモク氏である。娘婿が何者なのか、韓国人なのか、外国人なのかに対する質問にも、彼女は口を閉ざした。娘が稼いで補ってくれるいくらかの小遣いと現地国家から規定に従い支給される生活補助費で暮らしているという成氏に、「本当に、脱出したとき、13ドルしか持って来なかったのですか」と訊ねるや、激怒した。「原稿に書いてある通りです。私は、私の本において嘘をついていません。率直に、私と金を連結させようと文を書くので、虫唾が走る人間です。俗物達がせせら笑う話題に、私の名前が取り上げられることすら不快です」。夢にも見るソウルに今行く考えはないのかと言うと、「私は、今、一生で最も自由な状態です。現在の考えは、そのいかなる政治勢力の干渉もなく、自由に暮らしたいだけです」と答えた。北朝鮮に戻ることも考えなかったと。息子の側で暮らして死にたいという成氏は、息子の李韓永氏と暮らすため、脱出したという。「私は、韓国当局が私の脱出を秘密に付するものと理解しました。脱出するや、そのように全世界に対して、言論を通して騒ぐとは、本当に知りませんでした。背反感まで感じました。息子と暮らす考えでした。しかし、直ぐに韓国に行くことはできません。当面はできなくても、息子とこっそり隠れて、幸福に暮らそうとしました。韓国当局が保護してくれるものと考えていました」。
成恵琅氏との「対話」は、記者と会うために、彼女が泊まっているホテルのラウンジと部屋に移り、4泊5日間継続した。その内、2日目の夜は、辻褄が合うまで話もしたが、60代中盤の歳でも、彼女は、迷うことなく朝食の席に先ず私と記者を待っていた。妹の成恵琳を話すとき、息子と息子の死を話すとき、甚だしくはイム・スギョンを話すときも、彼女は泣いた。涙が多かった。記者は、彼女が「年老いた文学少女」と考えた。記事に全て書けない長い対話を終えた後、彼女は、自身の内情を打ち明けた。記者と会うことに対して、最後まで苦悶したという。韓国情報機関の者を同行することもあり、情報機関の人なのかも知れないという考えを振り払うことができなかったのである。しかし、自叙伝原稿を検討して、編集しようとする核心に入り、信頼することになったという。記者も、内情を打ち明けた。ソウルを離れるとき、妻が「万一、どこに連れて行かれるか分からないので、現地大使館の電話番号を必ず覚えて行こうと、覚えて来た」と。その話に成恵琅氏母娘は、爆笑した。「これが分断の現実」とし、3人は、気楽に笑うことができた。別れの挨拶を交わした後、2人の母娘は、バス停留場に向かった。記者が「タクシーで行きましょう」と提案するや、「私がこの都市を見物したことがなく、バスに乗って、都市を少し見て行こうと思います」とし、丁重に拒絶した。
CNNのインタビュー時、「公主(Princess)」と紹介されることもあったイ・ナモク氏と彼女の母成恵琅氏。越北前、ソウルで不足なく育ち、北朝鮮でも一時最高権力層で羨むことなく生活したらしい彼らが、見知らぬ異国の市内バスに乗った姿を見て、記者は、煙草を取り出して吸った。
本人が直接話す西側脱出の全貌&息子李韓永の死に対して涙で提起する強い疑惑
「私は息子のために離れて来た、 娘は「藤の家」を書いて、母を連れ出したようです」
編集者注:96年2月、国内のある日刊紙は、「金正日本妻成恵琳西側脱出」という題目のスクープ記事を出した。しかし、成恵琅氏の証言によれば、この記事は、スクープではなく、誤報だった。成恵琳の姉成恵琅氏だけが脱出したのである。82年、韓国に帰順、結婚して娘を産んで暮らしていた成恵琅氏の息子李韓永氏は、97年2月15日夜、京畿道ブンダンのアパートの前で怪漢の銃撃を受けて死んだ。
■恵琳を捨てて・・・。
父、母は、死にました。私達の息子も全員離れ、私まで離れてしまえば、恵琳は、私の犠牲の意味をどこで探すのでしょうか・・・。これが私を苦しめました。しかし、私は、袋小路に至りました。韓国にいた息子の電話、兄(成イルギ)の出現・・・。ジュネーブに行こうと恵琳を唆したのは、離れるためでした。既に脱出していた娘(李ナモク)との通話で、私の兄(李ハニョン)の話をするや、娘は、一旦、ジュネーブに出て来てと語りました。ジュネーブでの恵琳との最後の食事。向かい合って座った恵琳は、平素のように押し黙って静かでした。食べて、語って、私達は、2人一緒に食卓から退き、彼女の部屋に付き従い、向かい合って座ったときも、残したい言葉を思案しましたが、口をぴったり閉ざしました。1時40分。彼女が寝台に上がったのを契機に私は起き上がりました。そして、振り返らずに部屋を出ました。彼女が寝台に寝ておらず、私の後姿を追っている視線を感じましたが、そのまま出て行ってしまいました。
クロルベルモンドの坂。私の息子が下って行き、私の娘が下って行ったその坂の上から、私は、後ろに回って、家の後ろの急な階段を選びました。2時5分前にマーケットのエレベーターを降り、12番停留所までゆっくりと歩いて行きました。2時定刻に電車に乗れという娘の指示がどんな内容を秘めているのか知らないために、1分前に電車が来ましたが、見過ごしました。1分というのがこんなに
長いとは・・・。私のように電車に乗らない若者が目に止まりました。その停留所には、12番電車の外にないのに、何故乗らないのか。その人が私の「護衛」なのか?次の電車は、2時1分頃に来ました。私は、無意識の中で、その若者が登るドアに後に続いて登りました。私が降りることになっていた薬局の前で、その若者も降りました。私は、薬局から出てきた黄色い背嚢に従いました・・・。
地下駐車場で私の靴音が鳴る間もなく、ヘッドライトを燈した暗い色の車が私の前に近付きました。中からドアを開けてくれました。そこに娘が座っていました。4年振りに・・・私達は、抱擁もなく、一言の言葉もなく、速度計が最高で曲がりくねった高速道路を疾走しました。1996年2月でした。「母さん、おばさんの手記、忘れなかった?」娘のこの一言が敷いている本意が私の脱出の意味を要約することを知りました。そうです。正確に言えば、私は、息子のために離れて来て、娘は、「本(藤の家)」を書かせるために、母を連れ出したようです。彼女が話したおばさんの手記とは、私の母の自叙伝手記で、それがきっと「藤の家」の母体なのでしょう。
■今も未解明な私の息子の死、私が訴えなければ、誰が訴えるのか
1996年2月13日、ソウルで言論が「北朝鮮最高指導者金正日の前妻成恵琳と彼女の姉成恵琅の北朝鮮脱出」というトップ・ニュースを全世間に出した。私の妹が離れたというのは誤報ですが、どうしたものか、私の脱出は、このように世間に知られました。
私は、その春と夏、ソウルにそのいかなる連絡もできず、見知らぬ土地で他人の屋根裏部屋に潜んでいました。どこに定着するのかも未定で、そんな中でも、ソウルにいる息子の考えだけでした。私が無事に抜け出してきたことを知らせたかったのですが、恐ろしくて、電話をかけることができませんでした。1年が過ぎた97年2月15日夜。ここでは、16日の新聞で、李韓永が銃撃されたのです。代書特筆。全世間が黄長Y越南に対する北の報復であり、ソウルの報道を受けて驚きました。マッチ箱位の文字で5万の浸透間諜が活躍する証拠というのです。大統領の息子(金永三前大統領の息子)が大きく係わったハンボ事態に憤怒した民心に金庫番号を合わせて、ばたんと開かせるようなかみ合わせどころか、ハンボではなく、安保(アンボ)です。白昼に間諜が帰順者李韓永を撃ちました。安保、安保、安保の鐘を鳴らした。私は、当初、情報機関の造作ではないのか?と思い、まさか死ぬまではと慰めました。私は、娘とその恐ろしい新聞を拡げたまま、このように忠告されました。「置いて見て、欺瞞かもしれない。当たっただけなら良いが・・・」、「どこの病院に数日隠れて、出てくるのでは・・・」
溢れ出る記事を綿密に検討して、写真の2発の薬莢を垣間見て。ああ、植物人間になっても、生きてさえいれば。このように、10日間、あらゆる考えをしてましたが、25日夜、連合通信の報道を娘が渡してくれました。「母さん、終わった・・・」。その年の秋でしたか。事件発表というのが、もう1度、マッチ箱の大きさで私の息子の名前を出しました。金正日の誕生日の進上品として、北朝鮮工作組が行ったものという証拠不足の信憑性のない「事件解明」でした。
どこの馬鹿な工作員が指導者の誕生日前日にそんな事件を起こして、「贈物」と考えたのでしょうか。指導者の家庭や、私生活に対しては、ひそひそ話もできなくなっているのが北の気風なので、「前妻何某の甥」を誕生日の朝に全世間が揺れ動いて、それが進上だと考える者は、工作組どころか、北朝鮮の初等学校学生もあり得ません。北を知らずとも、余りに知らない自体暴露なだけです。ともかく、私の息子の死は、今も未解明です。哀れな私の息子のその悔しい死を私が訴えてやらなければ、誰が訴えてくれるのでしょうか・・・。
一晩に12回以上横たわったり、起きたり、掻き回したり、誰が私の息子を殺したのか、その美しく、正しい額に誰が銃弾を打ち込んだのか考えました。怨恨に嫌気がさす日々をどんな言葉で推し量ろうか。悲しみよりも苦しいのは、怨恨ではないのでしょうか・・・。
しかし、私は今、我が国で吹きすさぶ暖かい消息に涙を流し、もはや、その毒を収めました。全て忘れましょう、過去のことを、和解と統一より大きなものはありません。怨恨を解くことが、憎しみを捨てることが、南北同胞の課題であるのを誰よりも私は実感しています。私は、インターネットを探して、私の息子の現住所も探し出しました。「京畿道広州郡五浦面広州公園墓地李韓永」であると、もう少し待ちましょう。母がお前を探し出して、お前の家に松葉牡丹を蒔いて上げましょう。母は、全てを知り、全てを記憶しています。私が去る前、私の横に座り、ひどい音痴と呼んだ「心の故郷」、「さあ、母さん、この歌通りにピアノを弾いてみて」。私の手を鍵盤に導いた。ジュネーブの4階の家の話です。「夢にも見る恋しい故郷/昔のままに香り高く/今は消えた同務を集め/玉のような小川の開川を越え/蛍の光探してさまよったが/夢にも見る恋しい故郷」、私の息子、私の国は、どれだけ遠いところにあるのか・・・。
金正日委員長の前妻私の妹恵琳、19歳で作家李キヨンの総領娘になる。
「芸術映画「分界線の村で」で全北朝鮮が全員知る有名俳優になった」。
■私の妹恵琳
1950年、戦争が起こったとき、恵琳は、ソウル・プンムン女中2学年でした。母に従い後退して、平壌を経て鴨緑江まで、そこから再び東北に行き、一緒に疎開公民学校に通っていた恵琳は、ソウルから病んでいた肋膜炎がぶり返し、1951年、母に平壌に連れて行かれました。
戦争が苛烈でしたが、そのとき、平壌では、学校が全て開校されました。彼女が通った平壌第3女中は、昔1920年に母が通った平壌女子高等普通学校の後身で、その土地、その校舎に看板を付けた平壌の「名門」女学校でした。恵琳は、3学年に編入され、少年団委員長を務めました。学校の団委員長は、その学校の政治組織(少年団)の頭目として、各学校の学生代表でした・・・。中学生の世界では、最高の綺羅星という少年団団長の位置であり、16歳の恵琳は、道行く人々が歩みを止めて、見つめる位、秀でた美貌とすらりとした体格の少女でした。
1952年、平壌第3女中を卒業した恵琳は、金大(金日成大学)予備科に入学しました。しかし、恵琳は、再び病気になり、母は、合宿所で一緒に過ごし、自分のご飯700gを恵琳に食べさせ、代わりに雑穀で重湯を炊いて食べました。見ていられなかった周囲から、平壌に生まれた芸術学校で学生を募集しているが、そこへ行けば、白米ご飯と待遇も良く、そこに送ることを勧告して、恵琳は、芸術学校に行かされました。
先生達がやってきて、芸術人集団に噂が上り、恵琳は、その街角で噂になりました。ところが、ますます「余りに驚きました」。そのとき、芸術学校は、「俳優劇場」附属の建物にありましたが、横が大使館村で、道の向かい側が幹部舎宅村でした。そのため、舞踏会時は、大使や、外交官が来ることもありましたが、誰もが恵琳だけを踊りに選び出し、自分にパーティーに恵琳を招待させることもありました。ベレー帽をかぶった老チョンガーが道を守るやら、チェロを弾く同い年が苦悶するやら・・・母、父は、誇らしいというよりも不安でした。遂に、道を隔てた舎宅村の息子を持った幹部師母達が目星を付けました。
作家李キヨンの家に婚約だけしようという提議が来ました。僅か18歳だった恵琳でした。李キヨンは、20年代、カプ作家で、その当時、北では、ハン・ソリャと双璧を成した元老作家でした。「大地」、「豆満江」等の成果作で党の信任が高く、人民が尊敬する朝鮮のゴーリキーだという評価を受けていました。朝鮮文化協会委員長に、作家同盟委員長でした。ソ連が社会主義祖国だったそのとき、朝鮮文化協会の比重は、非常に高くなりました。
その家では、勉強を最後までさせることで口約束だけして、数回重ねて求婚しました。そのときも、その後にも、その家は、誰もが娘を上げたかった位、政治経済的、文化的に「トップ婚戚(最高の婚戚)」でした。その家は、息子が3人いました。私の父母がその家を受諾したのは、世間で言うトップ婚戚だったためだけではありません。作家李キヨンが真正直な人というので、点を付けたのでしょう。芸術学校を卒業した恵琳は、19歳で作家李キヨンの総領娘になりました。子供を生んで、嫁暮らしに埋もれていた恵琳を母、そのとき新たに生まれた演劇映画大学に入学させました。人妻は、大学に受からないという原則を破り、北朝鮮で唯一の人妻大学生になれたのは、母の涙ぐましい努力のお陰でした。
演出科を専攻した彼女は、卒業班から芸術映画「分界線の村で」の主人公に抜擢されました。映画の内容は、分界線の村に暮らすある越南者の妻が自分の不利な政治的処置からいかに抜け出し、党を信じて、怯まずに生きる道を開拓するという筋でした。金日成首相が映画を高く評価したことによって、この映画は、北朝鮮で初めて人民賞を受けました。そのときから、恵琳は、朝鮮芸術映画撮影所で主人公俳優として、全北朝鮮が全員知る有名俳優となりました。
最終更新日:2004/03/19